ヤマダイスキーの旅日記

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僕がイスラム教徒になろうと思った理由

僕は普通の日本人家庭、すなわち仏教と神道キリスト教を必要に応じて使い分ける環境で育った。そんな僕だが、20歳から30歳までの10年間を移行期間として最終的にイスラム教に入信しようと思っている。なぜイスラム教なのか、そもそもイスラム教とは何なのか、この記事ではそのあたりを整理してみた。

 

1,アザーンが好き

日本人でイスラム教徒になる人には大きく分けて2種類いる。

バックパッカーとしてイスラム圏に渡航したことがあり、現地の人々や文化に感化されたから」という人、それから「宗教や文化の研究をしていて、実際に自分がイスラム教徒になった方が理解が深まるから」という人。

僕は特殊な人間なので両方とも当てはまるんだが、ここではまず前者について述べよう。

 

イスラム教では毎日5回の礼拝があるが、その礼拝を呼びかける章句というか音声を「アザーン/Adhan」という。これはモスクのミナレット(尖塔)のスピーカーから大音量で町中に響き渡るもので、イスラム教徒じゃなくてもつい立ち止まって聞き入ってしまう。こればっかりは現地に行って聞いてもらわないと気持ちが分からないだろうけど、とにかく惚れる。

 

特に印象的だったのはカシミールの湖で聞いたアザーン。夕暮れの時間にこんな景色を眺めているとマグリブ(日没)のお祈りを知らせるアザーンが聞こえてきて、ごく自然な感情としてイスラム教徒になろうと思った。

 

YouTubeで音源を探してみたらいくつか見つかったが、やはり音源なので音質がキレイである。実際は音割れしていたり、建物で反響したり、雑踏の音に混じって聞こえてくるし、それから国や宗派によっても章句や音階に違いが見られる。 

具体的に何を言っているかといえば「アッラーのほかに神はいない」「礼拝に来たれ」といったことだが、意味を知るのはあとからでいい。響きが最高。それだけで入信する理由として十分である。

 

2,宗教として最も論理的整合性が取れている

僕は宗教を専攻していたわけではないので、キリスト教ユダヤ教ヒンドゥー教や仏教の教義にそこまで詳しくない。だけど何冊か本を読む限り、キリスト教の三位一体ってなんだ?聖書には科学では説明できない奇跡のエピソードが出てくるけど、これも信じないといけないのか?ヒンドゥー教はつまりカーストを肯定してるんだな?輪廻転生とか面倒じゃね?と思ってしまった。

 

その点、イスラム教は極めてシンプルである。

アッラーのほかに神はなく、ムハンマドアッラー使徒である。アッラーが決めることは絶対であり、アッラー対人間という構図のなかで人間は平等である。日々の生活のあらゆることはアッラーに従い、死後のこともアッラーに従い、よく分からないこともアッラーがよきように計らってくれる。悪いことが起きてもアッラーが決めたことだから仕方ないし、幸せなときもアッラーのおかげである。

理論的根拠がすべてアッラーに一元化されていて、シンプルなゆえに論理が頑強である。

 

まぁ繰り返しになるが、僕はあまり宗教とか論理とかに詳しくないので、さらに学びたい方は中田考さんの書籍を読んでみてもらいたい。これとかは僕も難しくてなかなか読み進めるのが大変だったが。。。

 

3,神の存在を証明することはできないが、神を信じる人々は存在する

ここまで何度もアッラーの名前を出してきたが、アッラーの存在を証明することはできない。まぁそれでいうとアッラーの「不在」を証明することもできないんだけど、僕にとってはどっちでもよい。なぜなら僕にとって宗教とは「実在を伴う虚構」であり、神とは「仮想包括的な論理」だから。

最後の審判なんて僕にはよく分からない。コーランも日本語訳とかアラビア語の原本とかをちょっとずつ読んではいるが、正直さっぱりである。でも確かに言えることは、「最後の審判を信じて行動している人たちがいる」「コーランハディースに従って生活している人たちがいる」ということ。宗教を論じるうえで、個人的には教義とか経典とかにはあまり興味がない。イスラム教におけるそれらの正しさや優位性を証明し、まして布教まで行うのは僕の役目ではない。もっと興味があるのは、宗教を信じる人間たち、彼らの心理である。彼らの心理というと分析が難しいから、「僕らの心理」「僕らの行動原則」ということにした。

それから神の論理的包括性。すでに述べたが、イスラム教において理論的根拠はすべてアッラーに一元化されており、世界観の説明は極めてシンプルである。人類における二大虚構として「宗教」と「科学」を挙げるとするならば、科学が宗教を訂正することもあれば、科学が説明しきれない部分を宗教が補完することもある。便利というと語弊があるが、「神は完璧である」じゃなくて「完璧な存在を仮定して、それを神と定義した」というあたりに宗教の強さを感じる。

 

4,現行の資本主義経済を補完するザカート・サダカの可能性

最後に、僕は大学で経済を勉強していたのでその観点からイスラム教について述べよう。そもそも僕は資本主義的な反資本主義の立場というか、資本主義経済に疑義を抱きながらも、暴力革命でもなく、隠遁するでもなく、ルールに則って平和的にルールを破壊していきたいと考えている。その現実的な最適解を考えてみると、やはりイスラム教のザカート(制度喜捨)やサダカ(自由喜捨)、もっと広義にいうとほかの宗教のチャリティや功徳がそうなのではないかと思う。

制度喜捨や自由喜捨といってもピンとこないだろうが、簡単にいうと前者は税金(貧しい者は免除される)、後者は寄付である。

税金というのはほとんどの国で導入されている制度だが、どうしても不平等感や不公平感がつきまとう。人より多く稼いでいるからといって税金を多く納めるのは本当に正しいのか?と思うし、その一方で必要な人に満足に配分されていないだろとも思う。これは国家が税制や社会保障を勝手に決めているのが原因である。

その一方で宗教における富の再配分は国家の税制と根本的に異なる構造をしている。その最大の違いは「死後に報われる」という実在を伴う虚構である。

税金であれば「俺は人より多く納税しているから偉いんだぞ!」「勝手に国家に徴収されて、その上ドブに捨てるような使い方をされてとんでもない!」みたいな主張が通るかもしれないが、喜捨であれば「俺はこれだけ施しをしているから天国に行けるだろう」「自分がもっとも解決すべきだと思う問題に支払う」なんてことが可能になる。「天国」という国家がコストを負担しないベネフィットのおかげで社会保障が成立し、さらにそれは個人単位(ここでいう個人とは社会的・経済的にインパクトのある起業家を指す)でのきめ細かな判断に基づいた意思決定となる。

うーん、あまりうまく説明できないけど、つまり宗教が経済学的に優れているところは「勝手にみんな自己満足で社会にとって有益なことをしてくれる」みたいな感じ。

 

5,まとめ

体感として、ある閾値以上の貧乏生活や臨死体験を経た知識層は何かしらの超個人的・形而上学的スキームに傾倒する傾向があるように思う。そして僕の場合のそれが暴力革命やカルトじゃなかったのは僥倖である。