ヤマダイスキーの旅日記

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完全なる自由とは恐ろしいものである

自由とは何か

僕が通っている大学は「自由の学風」というものを謳っているが、僕が通っていた高校の標語も「自主自律」であった。そこでは幾度となく「自由とは何であるか」という議論がなされるのだが、その度に結論と言えるのかさえよく分からない終わり方をしてきた。というより生徒や学生に丸投げするだけのことが多かったような気がする。

 

ただついさっきまでここジャカルタスカルノハッタ空港で寝っ転がって考えていたら、何となく気持ちのいい結論のようなものを得られたので記しておく。ちなみに現在時刻は朝の4時ということで、いろいろロジックに粗相があるかもしれないのでご了承いただきたい。

  

そもそも「自由」というのは福沢諭吉の造語であるとされていて、もともとは英語の "Freedom" か "Liberty" である。そう、困ったことに1つではなく、そしてこの2つの単語は微妙に意味する対象が異なるのである。

 

"Freedom"とは「やりたいことを好きなようにやれる」こと。

"Liberty"とは「社会的・道徳的に制約のない状態」のこと。

 

焦点を置いているのが「自分がやりたいと思ったこと」なのか「制約がないからやりたければやれること」なのかという違いである。ただ「自由」という日本語は、その2つの意味をどちらも含んでいる。

 

ちなみにカントは「純粋理性批判」で真逆のようなことを言っている。すなわち

自由とは、意志が欲望に束縛されず、理性的な道徳命令に服すること

というものである。やりたいことをやるのではなく、やらなければならないことをやるのが人間にとっての自由なんだという。だが、調べてみるとこの辺りの文章を英語に訳している人は"Freedom"という言葉を使っている...

 

あれ、Freedomって本能的な欲望のことじゃないの?カントって「理性で本能に打ち勝つことが自由だ」って言ってるんでしょ、Freedomじゃなくない?

 

というより英単語のFreedomというのがそもそもカントの定義する本当の自由とは違うということなのか。そうであればカント研究者が使うFreedomという単語はそもそもの意味が日常会話のそれとは違うんだろう。

 

 

ということでさっそく混乱し始めたので、僕なりの「自由」の定義を早いところズバリ書いておく。すなわち

選択肢の豊富さ

である。ありきたりの解答のようでいて、考えてみると奥の深い定義だと思う。

 

 

これはFreedomの意味に反してはいないけど、どちらかと言うとLibertyに近い。ただ僕の言うところは「選択肢を多く持っている」のが自由であって、「多くの選択肢を行使できる」というところまでは規定していない。その理由は後述する。

 

で、僕のこの「選択肢論」がカントの主張とぶつかるのかと言うと、焦点がずれているのでぶつかりようがない。というか「自由意志によって自分自身を律していく場合のパターンの豊富さ」に注目している。

 

自由度の具体例

分かりにくいので例を挙げよう。

 

カントによると「毎朝6時に起きると決め、それをキッチリ守ることが自由」ということらしい。ただし僕が自由を強く感じるのは「時間は決めないけど起きたいときにキッチリ起きる」ということである。それが5時だろうが6時だろうが7時だろうが構わない。ただしダラダラ寝ているのは僕にとって自由ではない。

 

Freedomだったら「起きるのはイヤだから昼まで寝ている」になるだろうし、Livertyだったら「仕事は自分の好きな時にやればいいから寝たければ寝ててもいい」になるだろう。だからそれらとは違う。 

 

そして、この自由というものには常に制約が付きまとい、その制約度合いに応じてレベル分けできる。また自由がある以上は不自由もあるもので、次のように示すことができる。

 

 

「低レベルの自由」とは「何時に起きるかまでは決める必要がないけど、午前中には起きる必要がある」などの場合である。

 

「中レベルの自由」とは「毎朝スッキリ起きれていて、目覚まし時計なんか使わなくてもキッチリ起きれる」という感じ。

 

「高レベルの自由」とは「5時に起きようと念じて寝たらピッタリ5時に起きれる性格だけど、明日は5時でも10時でもいつ起きてもいい」とかいうもの。

 

逆に不自由とはどういうものか。

 

「低レベルの不自由」とは「朝は早く起きた方がいいんだろうなぁと漠然と思っていて、目覚ましをセットして起こされる」。

 

「中レベルの不自由」とは「毎朝6時くらいになると窓から強烈な日差しが入ってきて寝ていられない」など。

 

「高レベルの不自由」とは「絶対に寝過ごせない用事があるから4時くらいからずっと起きていて二度寝しないようにしている」みたいな状態。

 

完全なる自由や完全なる不自由とは何か

まあこのくらいなら全部理解できると思うし、何なら経験したことのあるパターンもあるんじゃないか。ただ「完全なる自由」と「完全なる不自由」というものは、経験することが基本的に不可能である。これらはあくまで思弁的なカテゴリーである。

 

「完全なる自由」というのは「起きたくなければ一生起きなくても何も問題ない」というものだろうが、これは死んでいるか精神錯乱しているかのどちらかだろう。

 

そして「完全なる不自由」というのは「起きたくても絶対に起きられない」とかだろうか。これも死んでいるか精神ないし身体に問題があるのだろう。※うつ病で起きられないとかではなく、「起床」という選択肢がそもそも存在していないということ。

 

 

こういう無条件的で絶対の自由は存在しない。そして、その対極にある完全なる不自由も現実には存在しない。これがなぜかというと、人間の能力を超えているからである。ただ、もしもこのレベルの自由が現実に可能なことがあったら、それは恐ろしいと思う。リミットが外れていてもとに戻れなくなっている感覚。

 

ということでもう一回言うけど、「自由とは考えつく選択肢の豊富さ」である。

 

注意すべきなのは、これは考えつく選択肢であって、実際に現実問題として選べる選択肢はもっと少ないかもしれない。でも「自由」の定義としては、とりあえず議論のテーブルに置かれている数が大事なんじゃないかと思う。もしかしたら僕は今「現実的じゃない選択肢は選択肢じゃない」と言い放ってもいるのかもしれない。乱暴ですまないけど、少なくとも僕は普段そういう考えなので仕方ない。

 

 

ただし、選択肢が多ければ多いほど良いという単純なものでもない。

そして、「6時32分に起きる」と「6時33分に起きる」は別の選択肢だろうけど、ここでは便宜的にもうちょっと大雑把なパターンの区切りをするものとする。(条件がさすがに雑だな)

 

で、選択肢が多すぎると困ることがある。

例えば「朝6時から夕方6時のあいだのどの時刻でも同じように起きれてしまうんだけど、まったくなんの制約もないから好きにしていい」というのと「明日は朝の6時から8時のあいだくらいに起きればちょうどいい」というのとでは、後者のほうが選択肢の幅は狭いのに、どこかラクな印象がある。(ないですか?)

 

ある程度の制約があって選択肢が狭められている方が、考え込むことが少なくてラクなことも多い。人間というのは理性的なんだけど、同時に怠け者でもあるから、理由付けは欲しいけどしっかり考えるのが面倒だったりする。

 

「自由」についてのまとめ

自由とは選択肢の豊富さであるが、選択肢が非常に豊富な、つまり高レベルの自由が常に好ましいとは限らない

ということ。ここで「自由」についての議論は打ち切っておきたいが、しかし実はまだ終わることはできない。

  

責任とは何か

「自由」によく付随してくる概念に「責任」というものがある。こいつもかなりの厄介者であるから、議論しておく必要がある。

 

そもそも責任とは英語で"responsibility"。つまりresponseするabilityである。「こたえる」「能力」。

謝罪会見で記者からの厳しい質問に答える能力かと思いきや、そもそもはキリスト教における「神の期待に応える能力」というのが語源らしい。

  

この「責任」という単語についても僕なりに定義すると、2つの意味が隠れているんじゃないかと思う。つまり

➀自分(達)の行動選択によって生じた社会的な不都合を弁済すること

➁なぜその行動を選択したのか説明すること

の2つである。

 

日本語としてはどっちも使われているけど、どちらかというと➀の方に比重が置かれている気がする。「責任を取れよ」っていうのは➀で、➁の意味の時は「説明責任」という言われ方をする。

 

日本人というのは「迷惑」ということに関して過剰なほどうるさくて、特に誰も気にしていないのに「社会的な不都合が生じる可能性がある」というだけで委縮させてくることが多い気がする。 

 

そして大事なのは「責任は見えづらい」ということ。

 

というのも、ある行動が将来的にどのように社会に影響を与えるかなんて、事前に正確に評価するのは難しい。あまりに被害が大きすぎて責任を取り切れないというケースなんて歴史上いくつもあるだろう。 

 

例えば「なんであんな危ない国に行くんだよ。退避勧告が出てんじゃん。武装組織に拘束されても文句言えないでしょ、事前にそのリスクは検討してたの?これはあなただけの問題じゃなくて国際問題になるんだよ、あなただけじゃ責任取り切れないでしょ、どうするの?」という状況。

 

さっきの"responsiblility"の話に戻ると、僕にはrespondすることができないと思う。

 

でも、こういうありがちな自己責任論が見逃している責任というのも存在する。

 

例えば「あの国は独裁政権ですごく閉鎖的になってて、内部でどんな虐殺があるかわからない。内情を外国人が探って世界に伝えるのはジャーナリストの使命だし、紛争や貧困を解決するのは国際社会の責任である」というのがあるだろう。

 

この「使命」という概念はけっこうおもしろいもので、respondする時にわりと頻繁に使われている気がする。でも「使命」なんて誰が決めたわけでもないし、自分で勝手に思い込んでいるだけで、充分な理由にならないこともある。いや、世論が納得するなら説明になることもある。

 

ここでもちょっとまとめてみよう。

責任とは、自由のもとでの意思決定と行動選択が社会に与える影響を事前に評価し、社会に不都合が生じた場合には弁済すること 

 である。

 

なんかもうちょっと論じることがあった気がするんだけど、そろそろチェックインの時間だから打ち切っておこう。