ヤマダ=イスキーの旅日記

イギリス留学、世界一周などをしていました。

男女平等とは何か

男女平等とは何だろうか。

 

男性と女性というのは生物学的に違うものである。X染色体とY染色体の両方を有するなら男性、X染色体のみを有するなら女性、というのが定義のようだが、それはもっと身体的な差異として表れている。

 

一般的には
「男性のほうが筋肉がある」
「男性は妊娠できない」
「男性のほうが空間認識能力が高く、女性のほうがコミュニケーション能力が高い」
このようなことが言われる【追加資料1】。具体的な違いを挙げることは本稿の目的ではないのでこのくらいにしておくが、ともあれ男と女は違うものなのに、平等になりうるのだろうか。いや、というより平等を目指すべきなのだろうか。

 


そもそも「平等」には「結果の平等」と「機会の平等」の2種類がある。

 

結果の平等とは


「違う属性であっても同じだけのメリット・デメリットを受けること」
「属性によらず同じ権利と義務を持つこと」
「そろっていることが大事」


こういったことであり、機会の平等とは


「違う属性であっても同じだけのチャンスを保証されること」
「属性によらず個人としてだけ評価されること」
「そろっていなくてもいい」


こういうことである。

 

ここで「性別」ではなく「属性」としているのは、たとえば人種とか宗教とか年齢とかでも同じ議論だから。また「チャンス」というのは生かすも殺すもその人次第なので、それは利益にも損失にもなりうるし、その絶対値も努力や能力次第である。

 

いくつか例を挙げてみよう。

 

「ケーキを4等分してイチゴも1つずつ乗っけてみんな同じフォークで食べましょうね」というのが結果の平等、「ケーキを大きさバラバラに4つに切ったから、じゃんけんで勝った人から順番に好きなものを選びましょうね」というのが機会の平等。

 

「男性も女性も大卒の初任給は25万円ですよ」というのが結果の平等、「男性でも女性でも一生懸命働いていたら年収は最大で毎年100万円ずつアップしますよ。ただし怠けていたら給料はそのままですよ」というのが機会の平等。

 

「この授業では男子も女子も10kmを走りなさい」というのが結果の平等、「毎年春に開催されるこのマラソン大会には男性でも女性でも参加できます」というのが機会の平等。

 

「男性も女性も毎日10時間は社会に奉仕しなさい」というのが結果の平等、「男性も女性も、自分の持つ能力を発揮する方法は自由に選択できますよ」というのが機会の平等。

 

もう少し判別しにくい例もある。

 

日本国憲法24条や民法2条には「両性の本質的平等」というワードが出てくるが、これは「同じ権利と義務を有すること」つまり「結果の平等」となるだろうか。だけどここでいう「権利」には職業選択権とか居住権とか、チャンスという意味での権利も含まれているようである。だから「機会の平等」という側面もある。

 

なお日本国憲法の14条では「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」と述べているが、こちらはほぼそのままの「機会の平等」であろう。

 


「結果の平等」と「機会の平等」は普通そこまで厳密に使い分けられているわけではない。ただし男女平等において、このどちらを目指すのかはかなり重要なことであろう。男性も女性も納得できるような平等とはいったいどちらなのだろうか。

 

そもそもこの二項対立は「社会主義と資本主義」「日本の個別所得補償とEUの共通農業政策」などと通じる部分もあって、どちらが好ましいと簡単に決めることはできない。どちらにも強みがあるから、状況に応じて組み合わせるのが最適解になるのかもしれない。

 

ちなみに「結果の平等」と「機会の平等」のどちらを選択するべきか構成員で相談して決定できるなら、そもそもその時点である程度は「機会の平等」が実現されている気がする。

 


やや話を戻すようだが、男女における平等についての議論がややこしいのは、男女が交換不可能なまでに違うからである。逆に男性だろうが女性だろうが共通して持っている特徴で考えるなら、この平等論は実に簡単だ。ケーキは好き嫌いこそあれ、それを食べるときに性別をうんぬん考える必要がない。みんなで同じものを食べるか、それとも競争するか。

 

選抜プロセスにまったくメンバーの属性が影響を及ぼさないとき、なんなら抽象化された「人数」として扱われるとき、はじめて数学的に完璧な平等が生まれる。

 


「男女平等」で目指すべきなのは「結果の平等」なのか「機会の平等」なのか、という問いに答えていない。

 

こういう仮定をしてみよう。

 

最高裁判所の裁判官は、15人のうち男女どちらも最低5人はいなければならない」

 

このような条件があったとしよう。この文章をこれ以降は条件Aと呼ぶことにする。この条件Aは「男女平等」と言えるのだろうか。もし言えるのだとしたら、それは結果の平等だろうか、機会の平等だろうか。またこれは「理想的な」男女平等の姿なのだろうか。

 

ちなみにこのような、社会的弱者を優遇する制度のことをアファーマティブアクションというらしい。政治家や企業の管理職のうち何パーセントを女性にしなさい、などという案は既にあちこちで議論されているし、近いうちにどこかで施行されるかもしれない【追加資料2・3・4】。

またこのような議論で登場するワードに「ポリティカル・コレクトネス」がある。略してポリコレ。すごく簡単に説明すると、差別的な表現はやめましょうということ【追加資料5】。

 

ちょっと脱線したが、簡単に答えられるものから答えていこう。

 

もし「結果の平等」が達成されるとしたら、それは「男性8人と女性7人」「男性7人と女性8人」を交互に繰り返す、もしくは日本国民は平均寿命の違いにより女性のほうがちょっと多いので「男性7人と女性8人」とする、こういうことである。つまり条件Aは結果の平等とはいえない。

 

次に「機会の平等」はどうだろうか。これについては、条件Aは平等を保障しているわけではないけど、平等を阻害しているわけでもない。そもそも条件Aでいう「機会」とは「最高裁判所の裁判官になる資格を有すること」である。「男性しか裁判官になれない」などと述べているわけではないが、「男性でも女性でも同じくらい裁判官になる機会がある」と言い切るにはちょっと現状を踏まえていない。

 

調べてみると、今のところ最高裁判所の裁判官は15人のうち14人を男性が占めているようだ【追加資料6】。まだまだ前例も少なく、女性が容易に進出できる状況とは言えない。それをを打開するための過渡的な案としてであれば、クオーター制などの導入も検討されるべきかもしれない。

 

結論を言うと、条件Aの理想的な記述としては


最高裁判所の裁判官は選ばれるとき、その性別を考慮されることはまったくない」


こんなところだろう。それがたとえ「男性15人」であっても、「女性15人」であっても、性別をまったく考慮されずに選ばれたなら平等と言える。そしてこれは機会の平等である。

 


こういう文章の結論としてよく述べられるのは、「男女」「人種」「宗教」「年齢」「言語」「家庭環境」これらの属性のいずれにも関わらず "個人として" 自己実現するチャンスを与えられる社会こそ理想なのである、ということだ。「結果の平等」より「機会の平等」を目指すべきという姿勢には賛同できるが、少し反論したい部分もある。

 

卑近な例だが、僕の場合なら「男」で「日本人」で「イスラム教が好きだけど仏教と神道を軽めに信仰」していて「21歳」で「日本語」を話し「4人兄弟の末っ子として北海道で育った」というすべてが「個人」のアイデンティティを形成しているのであるから、完全に属性を排除して個人として判断することなんて不可能だと思っている。

 

男女の違いをどちらかにとっての手錠や足枷にするのではなく、かといって男女の違いをまったく忘れ去るわけではない。そもそも男女は違うものなんだから、その違いをうまく使えばいいじゃないかと思う。完全なる平等なんて、人類の多様性の前には実現不可能と言わざるを得ない。

 

 

※お断り。LGBTXについては本稿の議論に含めていません。あしからず。
※お断り。「男女同権」は「男女平等」と同義とし、議論していません。

 

追加資料1

もはや絶望さえ感じる「男と女の違い」13の例:らばQ

追加資料2

アファーマティブアクションとは?例を教育や雇用の面からいくつか挙げて解説 | 世界雑学ノート

追加資料3

アファーマティブ・アクションの例と問題|高校倫理 - Irohabook

追加資料4

アファーマティブアクションの具体例と措置法が抱える問題点 | キャリアパーク[転職]

追加資料5

ポリティカル・コレクトネスから考える、平等と自由の振り子関係 | 20代からの仏教アカデミー

追加資料6

裁判所|最高裁判所の裁判官